すばらしきもの(?)

本当に「『より』すばらしい」のかしら。

わたしたちがその隅っこの方にこっそりと陣取っている世界は、いわゆる「即興演奏」と親和性の高い方々の世界とさほど遠くない位置にある。
Facebook でもそういうグループをいくつかフォローしているし、X や Instagram でもそういう情報がフォロワーさんたちから流れてきたりする。
先日出演させていただいたライブでも、その前に観たいくつかのライブでも、誰かが必ず即興演奏、あるいは即興の踊りを繰り広げていたし、広義では「即興」と呼べそうな、同じことが二度と起こらないようなパフォーマンスも行われていた。

それを批判するつもりは毛頭ないし、むしろ「すごいなあ」「なんであんなすごいことができるんだろう」とびっくりしたり感動したりしている方なのだけれど。
ただ、何となく気になる、というか心に引っかかるのは、「即興(演奏)の方が素晴らしい/優れているのだ」という感覚を持っているように見受けられる人がわりと多いということ。特に Facebook を眺めているとそう感じる。

「即興演奏『の方が』素晴らしい/優れている」という文では、比較されるべき対象が示されていないけれど、おそらくは「既存の楽曲を演奏するよりも」「楽譜通りに演奏するよりも」というようなフレーズが挿入されるのだろう。
演奏者が複数であれば、わたしにはよくわからないけれど、音で会話するとか、以心伝心とか、阿吽の呼吸とか、ボディランゲージとか、目くばせとか、そういう非言語コミュニケーションが音に変換されることによって、その場でしか聴けない音楽ができあがるのだろう。
演奏者が一人であれば、インスピレーションとか、イマジネーションとか、五感が感じ取るものとか、そういう言語化される前の何かに衝き動かされて発せられた音の連なりが、一回性を伴った音楽として奏でられるのだろう。

不勉強かつ若干無関心なわたしでさえも、「即興」についてはさまざまな主張を目にする機会があるくらいなので、おそらくそちらを専門としている人たちにとって、何をもって「即興」と言うのか、あるいはある特定の事象を「即興」と呼んでいいのかどうかは、喧しく議論されるべき事柄であるはずで。
結局は自分の手癖から逃れられない、とか、めいめいが手前勝手に音を出している(あるいは蠢いている)だけじゃないか、とか、そもそも純粋な意味での「即興」は存在し得ない、とか、否定しようと思えば言葉はいくらでも思い浮かぶ。
もう一度言うけど、否定したいわけでも批判したいわけでもない。

例えば、仕事。
わたしは仕事柄、相手の悩みごとを相談されることが多い。
この手の悩みごとにはこう答えるといい、というマニュアル的なものは存在するし、その内容も知ってはいるけれど、わたし自身はめったにそれを使わない。
なぜなら、AさんとBさんの口から同じ言葉で語られる悩みごとであったとしても、Aさんの悩みとBさんの悩みは異なるものだから。
だから、毎回、マニュアルには目もくれず、目の前に提示された悩みごとに全身で、全身だけでぶつかっていく。
マニュアルを朗読するような立て板に水の回答はできないけれど、たどたどしく拙い言葉を回りくどく重ねてしまうときもあるけれど、わたしを頼り、わたしという個人に悩みごとをぶつけてきた相手への最大限の誠意として、わたしの内面からでてくる言葉だけで答える。
わたしにしてみれば、これは「即興」。毎日、毎回が「即興」の連続。
でも、これを「即興」と呼んで欲しいか、既存のマニュアルを朗読するよりも素晴らしいと褒めて欲しいか、と問われたとしたら、首をかしげるしかない。

問題は、わたし自身のコンディションによって「即興」の質が良くも悪くもなりうるという点。
「手癖」に寄りかかって横着してしまいたいという誘惑に打ち勝つのも、思いのほか困難だったりするし。
いつもその時点での最良を目指していることに偽りはないし、それでも答えのクオリティを最良に保てていないことをプロ意識の欠如だのなんだのと批判していただくのは甘んじて受け入れるけれど、クオリティにばらつきがでてしまうのは、認めざるを得ない事実として、ある。

「客はアルバムに入っている曲を聴きたいのだから、コンサートでも一切アドリブを入れるな」とバックバンドのメンバーに言ったのは、たしかマイケル・ジャクソンだったはず(違ってたらごめんなさい)。
彼はきっとアドリブ、「即興」というものを信用していなかったのだろう。
最良の演奏だと確信できるものをアルバムに入れたのだという自信があれば、ライブでのアドリブは、演奏を最良よりも劣るものにしてしまう(少なくとも、その可能性を孕む)ことになる。
工業製品を例に挙げるまでもなく、マニュアル通りに仕事を遂行することで初めてクオリティが一定に保たれるのも、また事実なのだ。

「人はその持てる語彙を超えて思考することはできない」
誰の言葉だかすっかり忘れてしまったのだけれど、わたしの座右の銘。
ここでいう「語彙」とは、字義通りであると同時に比喩でもあると思う。
上述の「クオリティ」を向上させるために、最良を「もっと最良」に押し上げるために、そしてクオリティの下限を一定に保つために、必要なのは「語彙」を増やすこと。それしかない。
その努力の裏打ちだけが、「即興」の素晴らしさを担保するのだと思う。

例えば、わたしたちの音について言えば。
いわゆる作曲という行為をしたことはないし、楽譜は読めるし、たぶんがんばれば書けるけれど、書いたこともない。
前にもどこかに書いたけれど、自分が聴きたいと思う音を作っているだけ。わたしの頭の中で鳴り響く音に、抱かれて沈みたいだけ。それを Elly の確かな耳が「いい」と言ってくれたら、外に出す。
手癖ができるほどのベテランでもなければ、「語彙」だってまだまだぜんぜん足りないけれど、すべての音が「一回性」を伴うという点に限って言えば、わたしたちのすべての作品は「即興」だと言っても、別に間違ってはいない。
でも、これを「即興」と呼んで欲しいか、セオリーやテンプレートに則って作られた「音楽」よりも素晴らしいと褒めて欲しいか、と問われたとしたら、やはり首をかしげるしかない。後者の方が素晴らしいだろう、とすら思う。
なぜなら、わたしたちにはまだ「語彙」がぜんぜん足りていないから。

なんでこんなことをとりとめもなく考えているかというと、一週間後に初めて、自分一人だけではなく、他の人と一緒にスタジオに入ることになっているから。しかも、大先輩と。
わたしは MacBook とモジュラーシンセサイザーたちを抱えて行くつもりなんだけど、いったい自分に何ができるのか、不安でしかたがない。
前日までにセットアップが決められるかどうかすら、自信がない。
今の自分の精一杯で、全身だけでぶつかっていくしかないんだけれども、それはわかっているつもりなんだけれども、「語彙」が足りなさすぎるがゆえの不安と緊張が、日に日に大きくなっていく。

ぜんぜん関係ないけど、”JOKER” という映画を今ごろになって観て、あまりに好きすぎて。
ホアキン・フェニックスは素敵な俳優さんだし、主人公の孕む狂気と自分の心が共振するのを抑えられない。
素敵な俳優さんと言えば、最近はジェイク・ギレンホールが出てる映画もよく観てる。
“THE GUILTY” はデンマーク版(”Den skyldige”)の方が好きだけど。

そんな、このごろ。

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