興奮冷めやらぬ、とはこのこと。
新国誠一さんという人を初めて知った、もっと正確に言えば初めて「聴いた」のは、去年の 7 月、ライブをやらせていただいた environment 0g でだった。
転換の時にかかっていた CD があまりに気になって、「これ、なんですか?」と平野さんに訊いた。
その時に新国誠一さんの名前を聞いたはずだったんだけど、メモするのを忘れていて(ポンコツ)、朗読の声だけが耳にこびりついていた。
去年の 10 月に再訪したときに訊こうと思っていて、また見事に忘れて(ポンコツ)。
こないだ Delphine Dora さんの来日ライブに行ったときに、DJ ブースに詩集が置いてあるのを見つけた。
見せていただきながら、ふと「あのときの『おんな・おんな・おんな』の人ですか?」と平野さんに訊いたら、そうだとのことで、そこにあった 2 冊の書籍や音源、コンクリート・ポエトリーのことなどを教えてくださった。
今度は忘れずにメモして、翌日にさっそく Amazon で 2 冊とも注文して、先に『現代詩文庫 新国誠一詩集』(思潮社・2019)が届いた。
ちょっとペラペラめくってみるつもりが、気がついたら夢中になって読み進み、辞書を引き、ペンで書き込み……。
詩はもちろんなのだけれど、わたしがいちばん、胸ぐらをつかまれて揺さぶられたように感じたのは、〈詩について:詩集『0音』補遺〉だった。
きみは「ことば」を信じているのだろうか? という読み手=わたしへの問いかけから始まり、それにしても、きみはなお、「ことば」を信じているのであろうか? という問いかけで終わるこの散文は、「ことば」を愛し、憎み、受け容れ、拒んできたわたしに、その相克の終わりに至る端緒を示してくれた。
自分の思考をリセットして読むときのために、もう一冊同じものを「保存用」として購入した。
そして今日、『新国誠一 works 1952-1977』(思潮社・2008)が届いた。絶版なので古本だけど、とてもいい状態だったのがうれしい。
こちらが件の CD 音源付属の本なので、さっそく取り込んで聴く。たまらん。すんごい。
活字の大きさの差異やページ配置などが、現代詩文庫よりも正確に再現されているのもありがたいし、製本もとても特徴的で、「紙面の空間が心理的な繋辞」(新国誠一)であり、「彼の作品は頁であり、かつ矩形のフィールドでもある」(建畠哲)ことをきちんと意図したものとなっている。
活動の様子を示す写真もあって、見てるだけでテンション上がりまくり。
しばらく彼の詩の海に溺れた後、ちょっと頭を冷やそうと思って、漫画を読んだりしていた。
別に何でもよかったんだけれど、何となく田島昭宇×大塚英志『多重人格探偵サイコ』を選んで、一気に読んだ。
それから半日くらい経って、唐突にこう感じた。
彼の詩は、生への賛美。
それも、ものすごく原初的なそれへの。
個人的には、柳瀬尚紀『ノンセンソロギカ―擬態のテクスチュアリティ』(朝日出版社・1978)を、大学をサボってふらっと入った古本屋でタイトル買いして読んだとき以来の衝撃。
これと同じくらいの勢いでぶん殴ってくる本とはもう出会わないだろうと思っていたから、なんというか、鼻血出て口の中も切れちゃってヘラヘラしていられるような、変な多幸感。
カールハインツ・シュトックハウゼンやピエール・シェフェール、ジョン・ケージが参照されているというのも気になるところではあるし、詩集『0音』の第Ⅰ部を「読む場合には、音読すること」と彼が指示するとき —— それはすなわち、わたしがそれを「音読」=音にしようと試みるとき —— 彼自身が構築した「白い矩形の聖域」(建畠哲)の一望性=同時性(=非線形性?)と継起性=線形性についてどう考えたうえでの策略なのかも、すごくすごく気になる。
イヴェント楽譜は詩である。それは音楽を介してアクションになる。
George Brecht
5 月 5 日に行われた「公開ミーティング」は、その開催を知ったのが一時間前だったので参加できなかったが、翌日に平野さんとメッセージをやりとりすることができた。
今からもう、やばいくらい楽しみ。出ちゃダメって言われても出る。