ずっと考えていること。
ちょっと前に、わたしは絶えず何かについて「ずっと考えている」とあらためて思って、そんなことをちょこっとだけ書いたような気がする。
他の人がどうなのかはわからないけれど、少なくともわたしは、紙とペンが手元にないと気が狂いそうになる。
いつでも何かを考えているし、何かを思いつくし、思いついたら書きとめておきたい。
そういうタイプ。
前に紹介したけれど、木石岳『やさしい現代音楽の作曲法』(2018年・自由現代社)が大好きで、全部読み終わったあとも、何度も手に取っては適当なページを開いて読んだりしている。
その中に Robert Coover ”Spanking The Maid” が紹介されていて、ちょっとびっくりした。
わたしは、佐藤良明訳(『女中の臀(メイドのおいど)』1992年・思潮社)をもう何年も前に古本屋さんで買って読んでいて(後書きでの訳者の逃げ口上に「やっぱりそうか」とひどく失望した)。
ポストモダンとか、ミニマリズムとか、メタフィクションとか、そういうことは何も考えずに「税込100円の古本」を読んだだけだったし、再読もしてないと思うけど、もわもわとした妙な印象のようなものだけがずっと記憶の片隅に残っている、わたしの中では「変な本」だったから。
考え続けていると、何年も経ってからこんな符合が起きたりして、そういうときにちょっと幸せを感じたりする。
円形のリングで全てのページを綴じれば、始まりも終わりもない本ができる。
柳瀬尚紀がボルヘスについて書いた文章でこの考えに出会った記憶があるけれど、それ以来ずっと、わたしは「始まりも終わりもない本」というものに囚われ続けている、気がする。
“infinity384819” は 1→3→2→1→3→2→1→3→2……という円環になっているように作ったつもりだし。
回文とか循環小数とか。ベルフェゴール素数とか。なんか気になる。
円環状の本は、ページを無限に増やすことができて、そこにはきっと、始まりも終わりもない、繰り返されながら無限に続く物語が綴られる。
誰かがそれを繙くたびに、あるいは日差しや暑さ寒さにさらされる中で、ページは少しずつ破れたり色褪せたり、ページごと抜け落ちたりして。
床に降り積もっている、破れた切れ端や抜け落ちたページを拾って、そこに書かれている何かを読み、笑ったり泣いたり怒ったりする。
そんなイメージがずっとある。
音楽、あるいは音に何らかの思想(例えば政治的な)を込めることに賛成も反対もしないけど、わたし自身はそういう行為への意欲は全くもっていない。
でも、いかなる表現も発信者の何らかの思想や感情が入り込んだものにしかなりえないから、そこは潔く諦めるというか、何を通底させるのかを慎重に選ぶべきだというか、何を想起させる(あるいは「させてしまうかもしれない」)のかに思いを馳せておくべきだというか、そんな思いはある。
一方で、何かが通底しているような音楽や音を嫌忌する気持ちもどこかにあって。
「家具の音楽」とか「サウンドスケープ」とかに妙に惹かれる自分もいる。
「ただそこにある」ような音、何も想起させないような音を作りたいという思い。
歴史が、あるいは時間が、繰り返されながら無限に続く物語として、絶えず、ただ、「そこにある」ように。
……まあ、とっちらかっているわけです。
ポンコツなわたしの「今」を、覚え書きとして。