作ったものを使わないという選択。
初めてロンドンを訪れたのはもうずいぶん前のことだけれど、よく知られたあの “Mind The Gap” を初めて聴いたときに、なんだかとても驚いたのを覚えている。
数日後、ロンドンから湖水地方に向かう電車の中で、明らかにサラリーマン然とした男性が平日の昼間にカバンの中からおもむろに缶ビールを取り出して飲み始めたのにもずいぶんびっくりしたけれど。
もうずいぶん前のことなのに、何かの拍子に、地下鉄のホームに響くあのアナウンスをふと思い出す。
若くて馬鹿だったあの頃に何を感じたのか、若くないけど馬鹿なままな今のわたしには思い出せないけれど、記憶がよみがえるたびに、体のどこかに何かが絡みつくような、不穏で甘美なものを感じる。
前作 “Prayers” は Ableton Live だけで作ったので、今回はモジュラーシンセサイザーたちと一緒に作ると決めていて、1 曲目も 2 曲目もまずは彼らと取っ組み合いして遊ぶところから。
Elly からの贈り物のモジュールを使い倒すことと、あまり使ってあげられていなかったモジュールや、通り一遍の使い方しかしていなかったモジュールと向き合うことを今回のテーマのようなものにしていたので、ときにはマニュアルと首っ引きになりながら、そしていつも通りにたくさん驚かされながら、素材を彼らにいっぱい作ってもらって。
Ableton Live から MIDI でクロックを走らせながら録音しているのだけれど、クロックを止めた後の残響をどうしても録っておきたくて、Audacity にも副産物の回収に一役買ってもらった。
ひと休みしてから、たくさんできた素材と副産物を抱えて DAW と向かい合う。
Ableton Live にぜんぶ並べて、必要なら加工をして、だいたいのミックスの感じを見積もってから 、できあがった素材を Studio One に並べ直してミックスとマスタリング、というのがいつもの流れ、なのだけれど。
わたしの悪い癖というか、これまでずうっとやってきたのは、作ったものは基本的にぜんぶ使うということ。
使わなければならないという強迫観念ではないのだけれど……なんだろう、お茶碗にお米の粒を残さない、みたいな。
もちろん、使ったら明らかにおかしいものは捨てるわけだけれども。口に入れたら変な味がしてこのまま飲み込んだらお腹が絶対にやばいことになるっていう遺伝子からの警報に顔をしかめながらそっと吐き出す、みたいな感じで。
腐ってないんだから、なんとかして食べられないかしらと、手を変え品を変え、こねくり回してお皿のすきまに詰め込んでいたのが、これまでの自分だったような気がしている。
“Prayers” を作ったときに、もっとすき間があっていいんだ、むしろあるべきだと感じている自分に気づいた。
にもかかわらず、すき間を空けなかった理由はすでに書いたから割愛するけれど、音作りから遠ざかっていた半年間で自分の中の何かが書き換わったのがわかって、ちょっと唖然としたりした。
下手くそな比喩ばかりになるけれど、音を作るときのイメージが、これまではずっと「暴走する満員電車」のようなもので。
どこにも逃げ場がない空間なのに、さらに一人でも多く乗客を詰め込もうとしていたような。
それじゃあまりに窮屈だよねと、当たり前のことに今ごろになって思いを馳せたり。
素材を録音したり加工したりするときに、なんでそう思いついたのか分からないけれど、原音とエフェクトを別々のトラックに入れてみたのが、結果的に功を奏して。
Studio One に並べるときも、並べてからミックスするときも、不要だと思う音だけをポイポイ捨てたりザックリ削ったりしながら進めていくことができた。
休憩してるときに漁っていた記事から、マスタリングの基準のようなものを知ることもできたので、さっそく活用してみたり。
いろいろ学びの多い制作となった気がしている。
すき間といえば。
モジュールたちと遊んでいるときには無我夢中であんまり何も考えていない感じなんだけど、今になって思い返すと、汲めども尽きぬ泉のように次から次へと「まだ見ぬ何か」を感じさせるモジュールがある一方で、底が透けて見えてきているモジュールもあったりする。
選手交代も考えていこうと思っている。ものすごく悪いことをしている気分だけど。
そうそう、オーディオを MIDI に書き出すという Live の機能を初めて使ってみたのも、今回の収穫。
ハードウェアとソフトウェアを連携させる方法は同期させることだけではないのだと腑に落ちた瞬間だった。
フォローアクションの使い方にも新しい発見があったし。ありがたやありがたや。
というわけで、新作 ”Ductility” です。
ductility は延性、malleability は展性、二つ合わせて展延性も ductility だそうです。