欲望

れすきゅーみー。

次はこんな音作ろうとか、あんな音を作りたいとか、日々ぼんやりと、時にはっきりと、考えながら生きている。
「こんな音」や「あんな音」を作りたいと、どうしてわたしはこんなにも切望するのだろう。
自分の欲求や欲望(生理的なものも含めて)に衝き動かされるのを、ある日突然、ものすごく鬱陶しく感じて、それ以来ずっとその感覚が拭えないまま、わりと長いこと生きているはずなのに。

初めてのライブに出る前に、一人で練習するためのスタジオを探していて、家からまあまあ近い場所にあったスタジオに下見に行った。
ちょうどオーナーさん(?)がいらっしゃって。
気さくな明るい人で、ちょっと下見だけのつもりが、気づけば一時間以上話し込んでいた。
準備すべきものや心構えなど、実践的なアドバイスもたくさんいただいたのだけれど、彼との会話で特に印象に残っているのが、これ↓

オーナー「結局、ライブやるとか、音楽作って発表するとか、ぜんぶ『承認欲求』なんですよね(笑)」
わたし「うんうん(笑)。ほんと、そうですよね」
オーナー「だから、ライブはいいですよ。お客さんに見てもらって、拍手なんかもらっちゃったりしたら、やっぱりうれしいし、楽しいし、気持ちいいですもん。がんばって準備してくださいね。何でも相談乗りますから」
わたし「ありがとうございます!」
オーナー「でもこれ、わりとみんな、はき違えてるって言うか……別にかっこつけても、きれいごと言ってもいいんだけど……」
わたし「承認欲求がだだ漏れっていう自覚くらいはしとけってことでしょ?(笑)」
オーナー「そう! それ!(笑)」

ついこないだ、テキストスコアについてぼんやり調べていて、そこから流されるがままに George Maciunas の書いたマニフェストを読んだりしていたんだけれど(画像は Wikipedia から)。

なんだろう、「そっちじゃない、こっち見ろ!」というマチューナスの切々とした訴えのように読めて。
上述した会話と、惣流・アスカ・ラングレーが繰り返す叫び(「だから私を見て!」)と、そして佐野元春の『欲望』(「グッドラックよりもショットガンが欲しい / 君を撃ちたい」)を同時に思い出した。

こちらがそのマチューナスさん(画像は Wikipedia から)。この切手、かっこいいなあ。真似したい。

もちろん、フルクサスやマチューナスを非難したり馬鹿にしたりする意図は全くない。アスカや佐野元春についても同様。
こういう宣言文を見つけると、むやみに読んで考えたくなる性分だというだけ。

ちなみに、佐野元春が「君を撃ちたい」と叫んだ後、女声コーラスが “Rescue me” と繰り返す『欲望』は 1993 年のアルバム “The Circle” のトップナンバー。
この曲は定期的にわたしの頭の中を埋め尽くしにやってくるので、一度きっちり向かいあっておこうと思って作ったのがこれ
欲望については、佐野元春の詞で語り尽くされているような、何かを付け加えるのは野暮と言ってしまえるような、そんな気すらする。

野暮と知りつつ冒頭の問いに戻るんだけど。
作った音を聴いて欲しいという思いは、もちろんわたしにもある。
誰かの耳に届いたわたしの音が、その人にほんの少しだけでも何か「よいもの」を渡すことができているとしたら、こんなに喜ばしいことはないと思う。
「よかったよ」と言ってもらえればもちろんうれしいし、わたしの音を買ってくれる人たちがいてくださることもほんとうに幸せ。ライブもまた機会があればぜひチャレンジしたいし。
でも、少なくともわたしの場合、それは「わたしの音を聴いて欲しい」と願う動機であって、「こんな音を作りたい」と望む動機ではない。

前者を承認欲求だと認めることに抵抗はまったくない。その通りなんだろうと思うし。
でも、後者は承認欲求ではないような気がしてならない。
聴かれることを前提に作っているのだとしたら、それは前者に含まれるのだろうけれども、タイミングとしてはその少し手前。
ただ、音が作りたい。音を聴きたい。それだけ。
前にも書いた気がするんだけど、音に何かのメッセージを込めたいという気持ちもない。
わたしの頭の中で鳴り響く音に、抱かれて沈みたい。ただそれだけ。ほんとうに、ただそれだけ。

この気持ち、この切望はいったいどこから来るの。
別にどこから来てたってかまわないし、困ってもいないけど。
でも、気になる。いつも、すごく、気になる。

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