やってみないと / やってみても、わからないことだらけ。
8/25 に environment 0g にて「コンクリートポエトリーパーティvol.1 ~新国誠一トリビュート&カバー~」に出演させていただくことになっている。
わたしたちにとって 2 回目の出演となるライブ。
昨年 7 月にはやりたくても(自分が未熟なせいで)できなかったことを、今回は少しでも実現させたいと、日付だけが決まったのを平野さんから聞いた段階で、出させて欲しいとお願いし、準備を進めてきた。
Elly とも、いつものおしゃべりの中で、ライブについても頻繁にやりとりしながら、少しずつ作り上げていって。そんなある日、Elly から「応援」として、あるものが贈られてきた。
それが、これ。↓
『新国誠一の《具体詩》——詩と美術のあいだに』という冊子。2009 年 6 月 8 日〜 6 月 29 日に開催された展覧会のカタログである。
ISBN がついていないということは、この展覧会においてのみ発売された図録なのだろう。
思わず「おおおおおっ!!」と叫んだくらい感動して、すぐにページを繰った。
こんな冊子があることも知らなかったし、武蔵野美術大学を訪れたときにも目にすることがなかった。
ほぼ新品の、とても美しい状態。
見つけるのだけでも大変だっただろうと思うと、Elly にはほんとにもう、感謝しかない。
収録されている詩は、この記事で紹介した 2 冊と重複するものももちろんあるのだけれど、初めて見る詩もあるし、大きく違うのは、カラー印刷だということと、詩論の寄稿者のラインナップ。
過去の展示や海外への寄贈作品などの肉筆をカラーで見られるのもうれしいし、「幻」や「辻」はカラーだとずいぶん違ったものに見えてくる。
また、彼と同時代に、ともにコンクリートポエトリーの場で活躍した国内外の詩人たちの寄稿は、書かれた詩やその(作者及び時代の)背景からの「分析」である詩論とは全く視座が異なり、非常に新鮮であると同時に、親密さにあふれている。
こういう文章に触れることは、わたし自身も違う視座から新国誠一の詩を見つめ直すことに繋がって。
言葉にできないからこそ音にするのか、言葉にできなければ音にすることもできないのか、そのあたりは自分でもよく分からないというか、永遠の課題というか、そういう抱え込み方をしながら日々を生きている。
今回のライブのタイトルでもあるけれど、誰かの作品を「カバー」するというのは、個人的には、その作品から自分が感得したものを上乗せしながら、元の作品を(形を変えて)発表するということなのかな、と思っていて。
わたしの場合は、最近ここでも少しずつ発表しているような、図形楽譜としての解釈によって新国誠一の詩と向き合うという(テクニカルな意味での)手法を選んだ。
他にもいろいろな方法は思いついたけれど、あえてこの方法を「選んだ」。
別にこれだけに固執しなければならないと思っているわけではなくて、一度にいろんなことができるほど器用ではないので、まずはこれでやってみてから次を考えよう、という感じだけど。
その上で、映像とともに発表する、ということも、同時に自分に課した。
自分が視覚優位かつ言語優位の傾向にあることはわかっている(?)上で、視覚的でありながら非言語的である「映像」や、視覚的でもなく言語的でもない「音」と組み合わせながら、視覚的かつ言語的である「詩」を表現することに取り組んでみたかったし、今もその思いは強い。
「言語的である『詩』」と言ってしまったけれど、コンクリートポエトリー、あるいは新国誠一の詩は、言語からその主たる存在理由である「伝達手段」という役割をいわば「剥奪」しようという試みだったわけで、果たして本当に彼の詩が、言語(として見えるもの)で作られているからという理由だけで、「言語的」であると言ってしまっていいのかどうか、自信はない。
また、こんな大見得を切っておきながら、図形楽譜としての解釈についても、映像作品としての出来についても、成功しているという自信も、もちろんない。
最近できたドイツやロシアの友人たちは、わたしの作品を褒めてくれるけれど、褒められたらもちろん嬉しいのだけれど、一方で、彼らの心を動かし得た理由には、日本語や漢字が持つオリエンタリズム(のようなもの)も多分にあるのではないか、と勘繰ってしまう自分もいたりして。
もう少し自己評価を高く保つことができたら、素直に喜べたり、割り切って前に進めたりするんだろうなと思いつつ、ああでもないこうでもない、ああすればこうすれば……と、三歩進んで二歩下がる感じでノロノロと歩んでいる。
そんな日々の中で、Elly が贈ってくれたこの本は、具体的にどのページが、とか、誰の言葉が、ということではないのだけれど、わたしの遅々として進まない歩みを、その背中をドンと押してくれたような感じで。
その中身だけではなく、この本がここにあるという事実そのものが、勇気をくれると言えばいいのかな。うまく言えないけど。
今日はライブ前最後の自主練習に、近くにあるスタジオへ(以前にこの記事で書いたスタジオ。店長さんがすごくいい人で、行くとおしゃべりして大笑いするのが楽しい)。
毎回、想定したとおりにセッティングすると音が出なかったりするポンコツは、今日ももちろんセッティングのミスを発見して修正したりしながら、何度も通しで練習。
セッティングはこんな感じ(モバイルディスプレイが壁紙丸出しになってるのが恥ずかしい……)。↓
本番と同じように暗くして、ついでに写真も撮ってみたんだけど、暗すぎて写ってないものがたくさんある。
コネクタが光るパッチケーブル、もっと短いのが売ってたらいいのになあ。
というわけで、冒頭の繰り返しになるけれど。