セカンドアルバムとか

まだ「鍋の中」だけど。

1st アルバムを出したのが……去年の 7 月か。
時間がたつのが早いのか遅いのか、ちょっとよくわかんないけど。
ついこないだだったような気もするし、もうずうっと前のような気もする。
そのあと、CD を手作りしてみたり、リスニングイベントをやったりしたんだった。
一方で、次はどんなの作ろうかなと考えていて、タイトルを決めたのが先か、Belphegor を出したのが先か……どっちだったっけ。
なんかもう、いろんなことをどんどん忘れる。ポンコツに磨きがかかってるなぁ。
だいたい、わたしが忘れちゃったことは、Elly がちゃんと覚えていてくれて、「○○だったでしょ!」って教えてくれる。
だから忘れてもいいって、高をくくっているわけでも居直っているわけでもないけれど、安心感はすごい。

どうでもいいことだけど、今ふと、「高をくくる」ってどういう語源なんだろうと思って、大辞林と新明解国語辞典で調べてみた。
国語辞典は、最低でもこの二冊にはあたるようにしている。そしてそのまましばらく読む。時間とやる気があれば角川類語新辞典でも調べて、他の言い回しも仕入れる。
英語辞典は、英和も和英もウィズダムが好き。時間の許す限り OED もひく。そしてそのまましばらく読む。斎藤秀三郎の熟語本位英和中辞典も好き。鋭利としか言いようがない訳文がたまらない。

そしてこれもまたどうでもいいことだけど。
「開き直る」と「居直る」は違う意味なんだって誰かから聞いたことがあって。
「開き直る」というのは、パッと心を開いて、サッと姿勢を直す(あるいは正す)ことだから、決して悪いことじゃないと。
「儂の何が悪いってんだ、バカヤロウ」みたいなのは「居直る」であって、こっちはよくないことなんだと。
本当かしらと思って辞典で調べたら、真っ赤なうそだった。大辞林によれば、「開き直る」と「居直る」は類語の関係、つまり言い換え可能。新明解国語辞典には、近年の用法として本来とは異なる意味の用例が紹介されているけど、それでも上述のような意味で使われているわけではない。
似非スピリチュアルを喧伝する輩が涎を垂らして飛びつきそうな、巷間にあふれる日本語の(故意であるがゆえにたちが悪い)誤用の一つと片付けてしまえばいいのだろうし、わたしが他者の著述や発言を読んだり聞いたりするときはもちろん「開き直る」と「居直る」を類義語として扱っているけれど、上述の「開き直る」という言葉の意味するところが、曲解と知りつつ何となく好きで、自分が発言するときはこの二つを区別して、「開き直る」は自分に向けてのみ使う言葉にしている。
「ちょっと『開き直った』方がよさそう」と感じたら、パッと胸を開いて背筋を伸ばたりしている。
そうすると、身体も心も少しだけスッキリしたりするから。

話を戻して。
自分の記事を読み返すと、Belphegor を出したときには「次のアルバム」って言及しているから、10 月から作り始めてはいたんだろう。
11 月に空に一羽の鳥もなく No Birds in the Sky を出した時の記事にはもう何曲か作ったって書いてるし。
その後、なんにもできなくなって、作りかけはそのままほったらかしてて。
で、先月からまたやり始めて、7 つまでできた、というのが、recrystallization を出した時点での話。

8 つ目に難儀しているのは Elly も知ってて、ブログにも「難産」になりそうって書いてくれてて。
去年の 12 月くらいに作りかけたものをこないだ発見して聴き直したけど、今のわたしには何がいいのかさっぱり分からないって思わず顔をしかめてしまうくらい、なんというか、ダメで。
思い切ってフォルダごと削除してゴミ箱まで空にして、ゼロからやり直すことにした。
なぜ難儀するのかは自分でもよく分かっていた。
それは、声を扱おうとしているから。

わたしは、人の声を自分の音に取り入れたいという思いが、割と強くある。
他の人と比べたことがないから、それが本当に強いのか、実はたいしたことないのかはわからないけれど。
わたしが二つめに買ったモジュールは、ベルギーのメーカーさんから個人輸入した、ローマ字のテキストファイルを日本語で音読してくれるものだったし。
音を作り始めた当初から、人の声を使いたい、取り入れたいという思いはずっとある。
だから何とかして入れようとけっこうな頻度でがんばってみるんだけど、うまくいかなくて頭を抱えることが多い。

それはもちろんわたしの技術的な未熟さによるところが大きいのはわかってるけど、なんというか、音としての「人の声」というのは、とても自己主張が強くて。これ、ずいぶん前にもどれかの記事で書いた気がするな……。
いろいろグチャグチャとこねくり回してみても、「我ここにあり!」という存在感がなかなか薄まってくれない。
ひょっとすると人の声というのは人が一番聞き取りやすい周波数なのかもしれないなあ、などと考えてみたり。
それとも、人の耳が人の声を一番際立たせて聞き取るようにできているのか。結果はどっちでも一緒だけど。

セカンドアルバムでも、その作成中にリリースした他の音でも、人の声をさまざまな形で取り入れてみているし、もちろんその一つひとつには理由があるのだけれど(そしてその理由は Elly にしか打ち明ける気はないのだけれど)。
できあがった音についてだけ言えば、「やっとうまくできた!」と思えているものもあるし、「もっと上手くできる方法が自分にあればなあ……」と思うものもある、というのが正直なところ。

ただ、件の 8 つ目については、絶対に妥協したくなかった。
いや、もちろん、他のは妥協しましたっていう意味ではなくて。
OK と言える基準というかハードルというか、それがすごく高くなってて。
要は自分で自分の首を絞めているわけだけれど、窒息すら辞さないくらいの気持ちで取り組んでいたのも事実。

Elly が出してくれたアイディアや、ここのところの AI の発展にも助けられて、以前よりも使い勝手のいいツールを見つけられたのが、いいきっかけになった。
三人の声での音読を録音したあたりから自分の中に勢いのようなものが生まれてきたことに気づいたので、そのうちの一人の読み上げる一単語だけをループさせてモジュラーシンセサイザーたちに入力して、ぐにゃぐにゃに加工してもらって。
できあがった音の上に三人の声を並べてから、声は最近お気に入りの Saturator で処理して。
別の音もモジュラーたちに作ってもらったり、サンプルパックから拾ってきたりして、全部一緒に並べてから入れたり抜いたりして、2mix にして Elly にも聴いてもらって、完成。

先月の時点ですら、全曲揃うのはいつになることやらと思っていたのに、気づけば終わっていた。
何が大きかったかって、こないだのホテル。これはもう間違いない。絶対、あれのおかげ。
マスタリングは、Buds を担当してくれたニュージーランドのエンジニアさん(Ritual Heaps さんのお友だち)にお願いしてみたら快諾してくれたので、お任せすることにした。
冒頭で「鍋の中」と書いたのは、マスタリングが(予定通りなら 2〜3 週間で)終わったとしても、それをどう盛り付けして「はい、召し上がれ」っていう状態にもっていくか、まだそのイメージができあがっていないから。

Elly はすでに完成を見越して、表立っても水面下でもいろいろ動いてくれていて。
先日の Instagram での SIX NINE の先行公開もその一つだし。
アルバムアートはろくに中身もないうちから、Elly と二人でキャッキャ言いながら作ってたし。
デジタルリリースだけなら、たぶんもうすぐ、しようと思えばできるんだけれども、せっかくやるからには CD もまた作りたいなあとか、リスニングパーティーもやりたいなあとか、グッズもできたらいいなあとか、ジェミニちゃん可愛いでしょうって言いたいなあとか、いろいろ考えてることはあるわけで。

別に何か思うところがあるわけでも、余命を宣告されたわけでもないけれど、最近、自分はあと何年生きるんだろうってよく考える。
同時に、自分が死ぬ直前のことも。死ぬ直前に自分は何を考えるんだろうって。
有意義に過ごせたと感じた時間も、無意義に過ぎたと感じた時間も、等しくわたしの余命を削っているんだよなあって。
突然何言いだしてるのって感じだと思うけど。

何かをこの世に残したいとも思わないし、Elly と自分の親以外の誰かの記憶に残りたいとも思わない(親より先に死にたくもないけれど)。
ただ、夢を追わずに終わっちゃったなあ、つまんない人生だったなあ……って思いながら死にたくはないなって、それだけは強く、ものすごく強く、思う。
だから、まだ終われないなって。

そうそう、そんな思いもあって、使っていない機材を買い取りに出した。
わたしの手もとで暇を持てあましているくらいなら、誰かの手もとに行ってその人の夢を追う手伝いをしてあげて欲しいって思ったから。
なんにでも人格を重ね合わせてしまうのはわたしの(悪い?)癖なんだけれど。

そんなわけなので、もう少しじっくり考えてから、セカンドアルバムはリリースします。
もうしばらく、時間をください。

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